【006 うれしそう】
前略。
エアコンが壊れました。
「あーつーいー……」
「……あー」
真夏の日差しをさんさんと浴びて上昇していく室温の中、呻く。
窓を開けても爽やかな風など微塵も入ってこず、頼みの綱の扇風機はひたすらに生ぬるい空気を掻き回すばかり。ぐったりと床に寝ころんでいた歩は汗で貼りつくシャツの襟元をばたばたと仰いで、傍らのソファーで同じくぐったりとしている千春を見上げた。
「ねー、修理っていつ来てくれるのかな……」
「分かんない……大家さんは日取り分かったら連絡するって言ってたけど……」
「むりだよー、あついよー、ファミレス行こうよー……」
「駄目だって、昨日も行ったじゃん……ちょっとくらい我慢しなよ……」
元々部屋に備え付きだったものであるし、まずは大家に連絡しよう、となってかれこれ一週間。初めのうちは美夏の家やファミレスに避難していたものの、さすがに毎日というわけにもいかず、こうして暑さに耐えるしかない時間がどうしても出てくるのが困りものだ。
正直、
「はー……」
もう、お互い溜め息しか出ない状況だった。
ひたすらにシャツをばたばたさせて、また呻く。
「あーあ、もう脱いじゃおっかなー……」
「え」
「……」
先ほどまで無気力に寝そべっていたくせに、首を乗り出して反応する千春をジト目で見つめる。しばらく無言でいるうちに、刺さるような視線に耐えきれなくなった彼女がまた、のそのそと元の位置に戻っていった。
「……千春ちゃんさぁ、ほんとアレだよね、むっつりスケベだよね」
「……いや、全然違うし。びっくりしただけだって」
「ほんと? 別に、脱いでほしいなら脱ぐよ?」
「え」
「……ほら、やっぱり」
「……」
外ではじわじわとセミが鳴いていて、恋人はそばで拗ねていて。
そんな、夏の1ページ。
【005 バカにすんな!】
美夏です。
ちょっと憂鬱なことがあったので聞いてください。いや、ほんと今困ってるんです。
今日、また例によって喧嘩中の二人に呼び出されたんですよ。そしたら、ちょっと今回はマジで険悪そうな感じで。
やばいなぁって思いながら、あたしもね、頑張ったんです。
「……えーと。とりあえず喧嘩の理由だけでも聞いておきたいんですけど」
「……」
「……」
そろそろと手を挙げてみても、お互いをちらっと見てからまたそっぽを向くこの雰囲気、分かります?
なんなんですかね、ほんと。普段あれだけべったりなくせに、おとなげないったらありゃしないですよ。
だから、ここはあたしが冷静になろうと思って。
「黙っててもどうにもならないですよ。ほら、歩さんは? なんで怒ってるの?」
「……だって、千春ちゃんがねぇ」
「何それ。先に言ってきたの歩じゃん」
「千春ちゃんでしょ!?」
「ちょ、ほら、落ち着いてくださいよ!」
焦りましたよほんと。
さっきまで黙りこくってたはずの二人がまた怒鳴りあいを始めようとするもんだから、あたしも必死になって間に入って。
しばらく待ってましたね、二人が落ち着くまで。
そのあとに、だって、って息ぴったりに揃えながら続けてきたんです。
「別にミロを粉のまま食べたっていいじゃない!」
「別にマヨをカレーにかけたっていいでしょ!?」
「……ぷっ」
まさか、この真剣な空気の中で飛び出してくる単語とは思わないじゃないですか?
だってミロとマヨですよ? 笑っちゃってもしょうがないじゃないですか? 夫婦喧嘩は犬も食わないって言いますけど、あたしだって食べられませんから。
だからあたし、言ったんですよ。
「ええー、どっちもないですよー」
って。笑いながら。
あれから歩さんにはミロをバカにしないでって拗ねられるし、千春さんにはマヨネーズがいかに完成された調味料かをこんこんと語られるし、いつの間にか二人で団結しちゃってるし。
ほんと、どうしたらいいんでしょう……
【004 いただきます】
二人暮らしを始めた頃から家事は当番制にしているとはいえ、朝食だけは彼女が作ることの方が多い。
栄養バランスよりもその時の気分で好きなものを作ってしまうためにやたらとエキセントリックな食卓になる確率も高いのだけれど、自分が朝に弱いせいで彼女に任せっきりにしていると分かっているだけ文句も言えず、そういう時は甘んじて受け入れることにしている。
おはよう。
欠伸を噛みしめながら声をかけると、笑顔で挨拶を返した彼女が鼻歌混じりにコーヒーを淹れてくれた。食卓に向かい合って座りながら、ぼんやりとした頭でマグカップに口をつける。
今朝は、王道の献立を目指したらしい。
先日新しく見つけたベーカリーのクロワッサンと、彩りのいいサラダにスクランブルエッグ。それに黄金色のコーンスープが、テーブルの上に湯気を立てて並んでいた。
ジャムの瓶を用意している彼女を、テレビの星座占いを眺めて待つ。
いただきます。
両手をあわせて食事を始めると、先に話したがるのは彼女の方だ。
今日の予定や、昨日あった出来事や、明日やりたいこと。どんなに取り留めのない話でも、のんびりとしたリズムで言葉を交わした。
「ねぇ」
途中、彼女がほっと息をついて、柔らかく微笑みながら続けた声に、私も静かに笑いながら頷く。
窓から差し込む光に照らされた笑顔は子どもの頃からずっと変わらなくて、この先も、ずっとずっと眺めていたいと思った。
二人で、過ごす毎日を。
あなたが幸せと言ってくれることが、嬉しい。
【003 献身的】
さくら組のちーちゃんは、同じクラスにいるあゆちゃんのことがだいすきです。
幼なじみのふたりはようちえんでもずっとなかよしで、ちーちゃんはいつもにこにこと笑いながら、「あゆちゃんはおひめさまみたいだねぇ」と口ぐせのように言っていました。
あゆちゃんはどちらかといえばおとなしくお部屋で遊ぶよりも、外で元気に走り回るようなやんちゃなおんなのこでしたし、すぐに無茶をしようとするあゆちゃんに付き合わされては、すこしだけおねえさんのちーちゃんばかりがお母さんにおこられていたはずなのですが、それでもちーちゃんはいつだってあゆちゃんを大切にしていましたし、お着替えをてつだってあげたり、あゆちゃんの好きなおやつを分けてあげたり、いじわるなおとこのこから守ってあげたりと、懸命に世話をやいていたのです。
ちーちゃんがとくに気に入っていたのは、あゆちゃんのふわふわとした長い髪の毛でした。遊んでいるとすぐに絡んでしまうからとあゆちゃんは不満におもっていたのですが、絡まった髪をていねいに解いてくれながら、いつもちーちゃんが言うのです。
「『あゆちゃんはおひめさまだから、このままの方がかわいいよ。こまった時はぜったいわたしが助けてあげるから、あゆちゃんはずっとおひめさまでいいんだよ』――って」
「……そうだっけ?」
「そうだよ!? 千春ちゃんが嫌がるから私ずっと短くしなかったんだよ!?」
「……いや、だって幼稚園とかあんまり覚えてないし。歩がすごいわがままだった気はするんだけど」
「私がわがままだったんじゃなくて千春ちゃんが甘かっただけなんだってば! ほらほら、ちゃんと思い出してよぅ!」
「……このアルバムもう何十回も見たじゃん。私もう眠いんだけど……」
「だめ! 思い出すまでだめ!」
「ええー……」
もう一度お姫様扱いしてほしいので歩も必死でした。
【002 かわいい】
「なんで私、背が伸びないんだろ」
風呂上りにわしわしとタオルで頭を拭いていると、隣で冷蔵庫を開けていた歩が唐突に呟いた。牛乳が飲みたいと言ったのは私なので、取り出してもらった紙パックを受け取りながら「さぁ?」と深く考えずに答える。そのままグラスに注いで、一気に飲み干した。
やっぱり、風呂上りの牛乳は美味しい。
「あ、私も飲む」
「いや、今さら気にしてもさぁ」
「ちょっとは違うかもしれないじゃない」
何が気に入らないのかふくれっ面の彼女に呆れていると、空になったグラスと紙パックを奪われたので黙って見つめる。ぐいぐいと勢いよく中身を傾ける歩は確か、そんなに牛乳が好きでもなかった気がするのだけれど。
大体、背が低いといったって栄養はまあ、十分他にいっているわけだし。
「ていうか、今何センチだっけ?」
「えーと……ひゃくごじゅうよん」
「……別に普通じゃないの?」
少しだけ間を開けてから出された数値のどこが駄目なのかと首を傾げる。
目の前の恋人を頭のてっぺんからつま先まで眺めて、ぽつりと口に出した。
「歩はさぁ」
「なに?」
「小さい方が、その――まあ、あれだって」
かわいい、と続けようとした台詞がやっぱり恥ずかしくなって、言葉を濁す。
ありきたりかもしれないし、今さら面と向かって言うのも照れ臭い。もっと正直に言葉を伝えた方がいいと分かってはいるけれど、そう簡単に上手くできるなら昔からやっているわけで。
「ね。千春ちゃん、ちょっとしゃがんで?」
「何?」
ふいに手招きされて、言われた通り腰をかがめる。
「――っうわ、ちょ」
ちゅっ、と柔らかな感触が唇に伝わって、思わず間抜けな声をあげた。悪戯っぽく笑っている歩にあたふたと体勢を整えていると、満足そうに訊ねられる。
「分かった?」
「いや……なにが? え?」
何を分かればいいのか、さっぱり分からないけれど。
私の恋人がかわいいことだけは、分かった。